本紙・表装共におおむね良好です。
春・夏掛けとして2シーズンお楽しみいただけます。
頼璋先生晩年の円熟味がにじむ静謐な一幅
●中国画の「米法」を基に、霧に包まれた峻嶺と静かな山居が●繊細な筆づかいで描かれ、幽玄な趣が漂います。
●春・夏掛けとして2シーズンお楽しみいただけます。
慶応2年(1866)、石見国邑智郡市木村(現・島根県邑智郡邑南町)に生まれる。名は大治郎。初号は豊文、別号は頼章。父は庄屋をつとめる田中助左衛門で、その二男。
17歳の時に画家を志して萩に出て、森寛斎に師事し豊文と号した。その後広島で軍務につく。明治35年(1902)上京して同流派の川端玉章に入門し、頼章と号して写生風の山水画を描いた。明治36年(1903)日本美術協会展に《楼閣山水》を出して三等賞銅牌となり、明治37年(1904)の《山居水住》で銀牌を受けて出世作となった。その後も日本美術協会展で受賞を続ける一方、巽画会審査員・日本画会評議員をつとめ、川端画学校の教授となった。明治40年(1907)東京勧業博覧会に《群猿》で三等賞牌を受賞。明治41年(1908)第2回文展に《鳴滝》で初入選して三等賞となり、以後も文展で入賞を重ねた。大正4年(1915)《四季の山》で二等賞、大正5年(1916)・大正6年(1917)には《山月四趣》《桂瀑四致》で続けて特選となり、文展旧派の実力者として活躍した。大正4年(1915)号を「頼璋」に改める。帝展においては、大正8年(1919)推薦、大正13年(1924)委員となり、第5回帝展の審査員をつとめた。昭和元年(1926)の第1回聖徳太子奉讃美術展にも入選した。また、邸内に天然画塾を開くなど、後進の指導にも当たった。関東大震災以後は広島に居を移し、悠々自適の生活を送る。中国画を学び、写生味の強い山水画を得意とした。
昭和15年(1940)2月16日、広島市の自宅で没。享年75歳。
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